テトリスをやりすぎた翌日、スーパーの棚に並んだ商品を見て「あそこにLブロックが入るな」と思ったことはありませんか?あるいは目を閉じたとき、勝手にブロックが落ちてくる映像が浮かんできたことは?これは「テトリス効果」と呼ばれる現象で、実は脳科学の世界でも本格的に研究されています。そして研究が深まるにつれ、PTSDの治療への応用という、ゲームとは正反対の使われ方まで見えてきました。
テトリス効果とは?——ブロックが現実に侵食してくる感覚
- テトリスを長時間プレイすると、現実の風景がブロックに見え始める
- 目を閉じたときや寝入りばなに、ブロックの映像が浮かぶことがある
- この現象はテトリスだけでなく、あらゆる反復作業で起こりうる
「テトリス効果」とは、ある作業に長時間集中したあと、そのパターンが日常の思考・夢・視覚にまで染み出してくる現象のことです。テトリスの場合、プレイヤーは街中のビルや本棚の隙間を見て、「あそこにどのブロックが入るか」を無意識に考え始めることがあります。
これはテトリス固有の話ではなく、チェスプレイヤーが夢でチェスの局面を見たり、外科医が術中の動作を繰り返し「再生」したりするのと同じしくみです。要するに、脳がその日の体験を処理・整理しようとしている証拠といえます。
入眠直前に起きること——「入眠時幻覚」という窓
テトリス効果が特によく観察されるのが、眠りにつく直前の「入眠時幻覚(hypnagogic imagery)」のタイミングです。覚醒と睡眠のあいだの数分間、脳は半覚醒状態になり、その日に処理した情報が映像として浮かびやすくなります。テトリスをたくさんやった日は、まさにここでブロックが降ってくる映像が現れるわけです。
ハーバードの研究者が発見した「記憶の謎」
- 2000年、ハーバード大学のロバート・スティックゴールド博士がテトリスを使った夢の研究を発表
- 27名中17名が入眠時にテトリスのブロック映像を見たと報告
- 驚くべきことに、プレイしたことを覚えていない健忘症患者も同じ映像を見ていた
記憶できないのに夢に見る——健忘症患者の衝撃の結果
2000年、ハーバード大学医学部のロバート・スティックゴールド博士は、テトリスを使った睡眠と記憶の研究を学術誌『Science』に発表しました。研究には初心者12名・上級者10名・健忘症患者5名の計27名が参加し、3日間にわたってテトリスをプレイ。その後の入眠時に何が見えるかを記録しました。
27名のうち17名がブロックの落ちる映像を報告しました。ここまでは予想の範囲内かもしれません。でも個人的に一番面白いと思ったのは、健忘症患者3名も同じ映像を見ていたという点です。彼らは海馬に障害があり、「今日テトリスをやった」という出来事の記憶を作れません。つまり、プレイしたことすら覚えていないのに、夢の中ではブロックが落ちてきていたわけです。
スティックゴールド博士はこの結果を、「夢のイメージは出来事の記憶(エピソード記憶)ではなく、手続き記憶や知覚記憶と結びついている」と解釈しています。「何をしたか」ではなく「どう動いたか」が夢の素材になる——記憶というものが、私たちが思っているより複雑な層で成り立っていることを示す発見です。
脳の効率化というパラドックス
テトリスを続けることで、脳にはもうひとつ興味深い変化が起きます。プレイ初期は脳のグルコース代謝率(エネルギー消費量)が急上昇しますが、4〜8週間続けると、上達しているにもかかわらずエネルギー消費は元のレベルに戻ります。より上手くなっているのに、脳が使うエネルギーは減っている——これは脳が処理を効率化した証拠です。また、複雑な動作の計画に関わる大脳皮質の部位が厚くなることも確認されています。
テトリスがPTSDの治療に使われている
- テトリスのビジュアル処理がフラッシュバックを弱める可能性が研究されている
- ウプサラ大学のエミリー・ホームズ教授らが臨床試験を実施
- コロナ禍の医療従事者99名を対象にした試験で、フラッシュバックが10分の1に減少
フラッシュバックとビジュアルワーキングメモリの競合
「テトリスがトラウマ治療に使える」と聞くと、にわかには信じがたいかもしれません。でも仕組みを知ると、なるほどと感じます。PTSDのフラッシュバックは本質的に「視覚的な記憶の再生」です。そしてテトリスは、視覚的・空間的な情報処理(ビジュアルワーキングメモリ)を強く使うゲームです。
ウプサラ大学のエミリー・ホームズ教授らは、この両者が脳の同じリソースを奪い合う関係にあることに着目しました。トラウマの記憶が完全に定着する前にテトリスをプレイすることで、フラッシュバックの「鮮明さ」を弱められるのではないか——そのアイデアを実証実験で検証しています。
コロナ禍の医療従事者99名への臨床試験
その成果が『The Lancet Psychiatry』に掲載されました。コロナ禍に職場でトラウマを経験した医療従事者99名を対象とした無作為比較試験で、テトリスを使った介入(ICTI)を受けたグループは、対照グループと比べてフラッシュバックの回数が10分の1に減少。さらに6か月後には、介入グループの70%がフラッシュバックをまったく経験しなくなったと報告しています。
テトリスという名前のついたゲームが、娯楽ではなく病院でPTSD治療の道具として使われている——この事実は、「テトリス効果」という言葉の意味をまったく新しい方向に広げます。
まとめ
テトリス効果は、「ゲームをやりすぎた証拠」ではありません。脳が何かを一生懸命に学習し、処理し、定着させようとしているサインです。健忘症の患者がゲームのことを覚えていないのに夢で見るという事実は、私たちが「記憶」と呼んでいるものが複数の層でできていることを示しています。
そして、そのビジュアルを占有する力がフラッシュバックと競合してトラウマを和らげる可能性がある——この展開は、テトリスというゲームの底知れなさを改めて感じさせます。落ちものパズルがまだ私たちの知らない可能性を秘めている、と個人的には思っています。
出典・参考リンク
- Stickgold et al. (2000)「Replaying the game: hypnagogic images in normals and amnesics」PubMed
- Scientific American「Tetris Dreams」
- University of Oxford「Tetris used to prevent post-traumatic stress symptoms」
- University of Cambridge「Tetris gameplay treatment helps reduce traumatic flashbacks for frontline healthcare workers」
- Wikipedia「Tetris effect」


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